◆海外での経験

18歳でアメリカに渡った僕を待っていたのは「一生大切にしなければならないと思える兄弟たちとの出会い」と「言葉の壁」でした。

渡米するまで、英語だらけの生活には全くと言っていいほど慣れておらず、中学・高校修了レベルの英語しか身についていなかった僕は、アメリカという国で生活をし、学校で授業を受け、さらには子供たちにダンスや歌を教えられるレベルにまで語学力を上げなければならない。正直、壁は高かったです。ハンバーガー一つ食べるのにここまで苦労するのか、買い物一つすることにこんなに不安になるのか。地獄でした。でも僕のルームメイトたちは(当時は2LDKぐらいのアパートに、僕+アメリカ人3人の4人でルームシェア)英語ができない僕のベッドの横に毎晩来ては「今日一日何があったか聞いていくから英語で教えて」とたくさんの手助けをしてくれました。気兼ねなく手助けを求められる環境を作ってくれた彼らはこの文章を読むことはないでしょうが、本当に感謝しかありません。でもそこでも常に僕らの間には音楽とダンス(たまたま全員がストリートダンス経験者だった)があって、みんながみんなマイケルのファンだったから言葉なんかなくてもお互いを理解して、顔を初めて合わせたあの日から僕らのケミストリーがあったのだなと思います(笑)

ルームメイトたちと(渡米一年目)

アメリカに到着した2日後には学校でのプログラムがスタート。授業の内容としても様々なジャンルのダンス(バレエ、タップ、ヒップホップ、ジャズetc.)や、表現に特化した演技のクラス、ピアノ、歌などの実技のクラスに加え、教育心理学、舞台上の機材を扱う座学授業、すべて英語で受けるものでした。8割がアメリカ人の環境の中で授業を一緒に受けていてとても衝撃的だったのは授業への取り組み方。床に寝転がって授業を受ける子や、リンゴをかじりながら先生に質問する生徒。日本じゃありえねーぞこれ(笑)って思いましたが、先生が一度”○○について誰か説明してくれる?”と聞けば、教室にいる学生全員がすぐさま手を挙げて自分の思いをはっきり伝えるし、プリントの空白があれば、そこが真っ黒になるぐらい自分の回答で埋めるのが当たり前、「自分の考えは表に出して当然」という状況で、これまた僕の育ってきた環境ではなかなか見ることのないもので、ある意味のカルチャーショックでした。

またさらに衝撃的だったのが教育システムそのものの違い。これはあくまで個人的意見ですが、僕が経験してきた日本の教育では、何かに取り組むときの手順として「1から10まで順番通りに教える。誰かが教えてくれる」形でしたが、海外では「1と10は教えるが2-9は自分でFigure it out(考えろ)」というものでした。自分を表立たせず、周りとの共存を意識する日本のシステムと、自分を出し、個々の存在をうまくバランスどる外の世界の教育。僕はその違いに衝撃を受けるも、いつかこれを日本のみんなにも教えてあげたい。と思うようになります。

カレッジのネット宣伝用で撮影した写真

その年に入った新入生約100人の中で英語を話せなかったのは僕1人。アメリカ人のクラスメイト達の前で英語でプレゼンや、演技をしたり、歌を歌ったり。授業の回数が増えるにつれて、ストレスもどんどん溜まり。何度か授業を途中で抜け出して、リハーサル室に駆け込み一人、爆音で音楽を聴きながら暴れるように踊った夜もありました。余談ではありますがプログラム修了後のツアーに出るには成績表の中に「F」がついてはいけない(アメリカではA+~Fでランク付される)のですが演技のクラスで途中退出を繰り返した僕はFを一度もらい、先生に懇願し追試で逃れるということもありました(笑)

 渡米の3ヶ月後には新入生のみで構成されるショーもあり、1日12時間越えのリハーサルを繰り返し、2時間にわたる本番に向けて汗を流しました。当時辛かったのはやはり英語というネックがあったのでディレクター達の指示を理解できない事。朝起きてから寝るまで常に気を張って、何をすればいいか理解しないといけない。みんなから遅れを取ってはいけない。お昼休憩に入っても何時に戻ってきたらいいかわからない。みんなに聞きたいけど、聞き方もわからない。外にお昼を食べに行くことすら臆病になってしまい、はじめの頃はご飯を食べずにリハ室で待つなんて事もありました。でもこれも、繰り返しめげずにこなしていれば、大体お昼の時間は決まって45分だな、など流れを把握できるようになり、それをもとに指示された時に何を言ってるかがわかるようになり、と不思議と進展していくわけです。そうすると心に余裕が少しずつ出てきて、みんなが言ってる単語や言葉の使い回しを真似して使ってみるとそれが通じたり、と「継続・反復」することで人間はどんな環境にも馴染むようになっていけるんです。それと同時にやっぱり僕がやってきた日本の教育システムの英語だけじゃ無理だな、とここで痛感しました。(笑)

渡米4か月後には初めてのワークショップ(教える立場としてのもの)が始まります。初ワークショップの場所は今も忘れない、電流の流れる鉄格子が高くそびえ立っていたロサンゼルス近郊の少年・少女用の刑務所。刑務活動の一環として表現教育を用いたものでした。参加する子供たちは日本の中高生の年層で、これからの自分の将来を立て直そうという固い決意に輝かせる目を見ながら、カリフォルニアの雲一つない青空の下で一緒に踊った光景は、今でも鮮明なもので、踊り終わった後に我に返ると、ふと実家近くの大型電気量販店の閉店後の店前で暗い中一人で踊っていた光景を思い出していました。こんな風にダンス一つで遠く離れた人たちとつながることができるんだなぁという感覚は不思議なものでした。それに、映画で見るような建物の中で緊張しながらも英語で振付を教えた経験はかけがえのないものだと思います。

 プログラムを修了したのち、ミュージックアウトリーチツアーという名目で、日本全国、イギリス諸国、アメリカ各地、ヨーロッパ諸国、合計12か国以上を約3年にわたり駆け巡り、いろいろな世界を見ることになります。宿泊先はホテルなどではなく、各地でワークショップに参加する子供たちの家にホームステイ。観光や旅行での食事などとは全く違い、その国々の家庭を実際に見ることで日本との違いや、日本人としての自覚もするようになりました。

東北ツアー中のSei-Chanと実祖母

ワークショップ自体は基本的に3日間に渡って行われ、参加する子供達と最終日に1時間のショーをするという内容で、1つワークショップが終われば、「ツアー」ですので、3日毎に次の街へと移動する行程になっており、各ツアー3~4か月単位でした。スケジュールキツキツな時もあり。。(笑)ステージの照明・音響の設営・撤収も自分らでやりますので、3日間ごとにそれらを繰り返し行いながら、男女関係なく重たい荷物を運ぶわけですが、僕が参加した真冬のスコットランドのワークショップでは22時に撤収作業含めワークショップが終わり一度それぞれのホームステイに戻った後、23時に再度会場に集合、そこで大型バスに乗り、車内泊/夜間8時間かけて次の街に移動。翌朝8:30には次のワークショップがスタート。(笑)このようなハードなスケジュールの中で、かけがえのない経験をしました。バス移動だけでなく、全く知らない、その日出会った人のおうちで寝泊まりを繰り返す、という普通では経験しないことができたおかげで、今ではどこでもぐっすり寝れます。もちろん、感謝の心得もたくさん勉強しました。

1ツアーのキャストは原則約40名。どれも現役の団員300名ほどの中からオーディションで選ばれたもので、国も出身地も年齢もある程度バラバラ。そんなキャストたちと4か月近く、生活も含め共に集団行動することで、1つの目的に対して、グループとして取り組む環境で必要なことをたくさん勉強しました。人と人なので、もちろんぶつかることもたくさんあり、日本とは違い、自分の意見をはっきり伝えないと生きていけない世界なわけで、どうするのが相手にとって理解しやすいベストな伝え方なのか、など言葉一つとっても、瞬時に考えなければいけないことがたくさんあったので、これまた10代のうちに勉強できたことは、かなり貴重なことではないかな、と思います。

そんな恵まれた環境の中で、僕が勉強して、一番広めていきたいと思ったこと。

“ダンスで感情を表現する”

次のページではこのテーマに繋がった経緯、そしてそれをモットーにした、僕が現在行っているダンス活動に関して載せていきます!

学んだ事とその先に続く→

タイトルとURLをコピーしました